1963年・高校一年の夏休み

高校1年の夏、僕は原付バイクで山形から富士山へ向けて一人で旅立った。
それは後から考えれば無謀ともいえる計画ではあるのだが、そのいきさつを夏休みの宿題の作文に書いて提出した。
学校へ無届で、またその無謀な内容に学校でも無視できなかったのか職員会議にかけられたのだった。

しかし、国語の教諭からは「よかったよ」などと声を掛けられ、その年度の学校発行の文集に「一人ぼちの旅行」という題で掲載になったのである。

発行された文集で、当時かなりの話題になったのを覚えている。
友達もいない孤独な僕に友達ができ、恋人らしき女の友達も現れたり・・・・

しかし、その文集はどこへ行ったのやら、行方不明になって数十年が過ぎていた。
それが先日、ある探し物の最中、押入れの中の紙袋の中からその文集が出てきたのである。それも大正時代の印刷物か?とも思わせる色合いに色あせて・・・。

それから懐かしい文字列に眼を落とすと、一気に読み進めてしまい、最後には当時の気持ちになっていて、思わず涙がこぼれ落ちるしまつでした。

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[ 写真は、1963年(昭和38年)の、十国峠から見た箱根の芦ノ湖 ]

そんなことで、また無くすのも困るので、というよりも多くの若い人にも読んでもらいたいとも思ったからなのですが、ここで公開してみようと思いました。

※正月恒例の「大学箱根駅伝」のテレビ映像に映った芦ノ湖と箱根神社。その映像を見ているうちに、自分と箱根の思い出がよみがえってきたというのが正直なところです。

高校一年時の文章ですし、つたない文章なのですが、私はこの文集を先日数十年ぶりに読み返したときは、涙が流れ出し、一気にあの当時の私に戻ってしまったのです。
あの時は、父も、兄も、まだ生きてたんだなぁ・・・、なんて。

ああ、そうそう、この旅行記は、あの東京オリンピック(1964年)の前年の出来事です。古い話ですみません。
でも、現在学生の皆さんにも、何かの足しになれば嬉しく思います。

取り立ての原付免許証を手に、無謀な旅行に飛び立った私の体験記です。
掲載の写真も、白黒で、時間の経過を物語っています。

【追記】
このブログ内容記事は、2012年1月3日に、別のブログにアップしたものです。
しかし、そのブログは期間有料サイトなので、いづれは消えるのかもしれません。
でも、残したい記事はやはり多くの若い人に読んでもらいたいと思いました。
そこで、無料ブログサイトとして知られた、ワードプレスのここのブログサイトに改めて載せることにします。
ここでの記事が、皆さんの少しでもお役に立てば、嬉しく思います。(間もなく、53年前の話になります。)

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「一人ぼっちの旅行」

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(写真は、茨城県の大洗海岸で:1963年8月2日)

【序章】
僕は小さい頃から旅行は好きだったが、自分から進んで行きたいと思うようになったのは中学一年のとき買った本に自転車で世界一周をなしとげた二青年の体験記というものがあった。それを読んでからのことである。
その頃の僕は世界というものに非常に惹かれていて「将来、世界一周を必ずやってみせるぞ!」と誓っては浅い考えでよく地図を広げては思いにふけっていたものである。

【思いたち】
そして、高校一年の夏休みを利用して、少し大きな旅行をしてみたいと思いたったのである。それからは暇をみては少しずつ計画を立てていった。
どこに行くか。何で行くか。何人で行くか。金は日数は、などなど、いろんな面から検討し、また考えぬいた。
休みが近づくにつれて少しずつ決まっていった。

どこに行くかについては自分の住まう東北地方もよいが、以前から行ってみたいと思っていた関東や甲信越地方の名所巡りと決めた。
その中には富士山に登ることも入れておいた。
何で行くかはちょっと問題になった。ありふれた旅行はあまり好きでないので自転車にしようと思ったが自転車ではあまりにも日数がかかり過ぎる。そうこうしてるうちにオートバイが頭に浮かんだのだった。
「そうだオートバイならこの計画も無理ではない。それに家には都合よくオートバイはあるし。」というぐあいに、何で行くかも決まってしまった。
ただ一つ大きな問題が残った。
僕には免許が無いのだった。そこで夏休み前までにオートバイの免許を取る計画から実行しなければならないのだった。5月生まれの僕には、16歳という免許受験資格は目前に迫っているのでそう大きな障害ではないのだった。

【準備開始】
この計画はまだ未発表なので、知っている者は僕一人だけであった。
学校にはまだはっきりと決行できるかどうか決まらないままに夏休みに入ってしまった。それは二度の受験に失敗し、まだ免許試験に合格してないからなのだった。
そのような状態で高校一年の夏休みに入ってしまったのだった。
このままではせっかく立てたこれまでの計画もオジャンになってしまう。そのような危機感から挑んだ7月24日の3度目のオートバイ免許試験に見事に合格した。
こうして計画の一部はクリアしたのだった。
ただ免許が自分の手元に届くまで一週間あり、その日数を夏休みから差し引くと二十日あまりしかない。その日数を手元の計画と照らし合わせると何だか急に心細くなってきた。でもこの計画をあきらめるわけにはいかないと自分にいい聞かせた。その間の時間をうまく使い、家の手伝いをしてその金で3人から4人用というテントを買ってもらった。一人で行くには大き過ぎたし、建てるのも大変なのだが、手に入るテントはそのサイズしかないのだった。

これで計画に必要なものはすべてそろったのだったが、最後に大きな問題がひとつ残っていた。それは家族にこの旅行の計画をどう説明するべきかだった。家の人にいえば反対されるに決まっている。これはこの計画の最大の問題であった。
すべてがそろった僕にとって、この計画を実行に移したいのは当然のことである。
考えたあげく、両親にはこう言った。
「8月1日から5日までの5日間、友達と3人で福島県の猪苗代湖にキャンプに行ってくる。」
ウソを親に対して言うことは辛かった。まさかオートバイで関東地方や富士山まで行ってくるなどと思いもしない親に対して、また息子の僕を信じている両親に対して嘘をつくのはこれまでにない辛さを覚えた。
そんな辛さの中、僕は空いた時間を利用して近くの空き地に一人でテントを建てる練習を何度も行った。

7月30日に待望の免許がきた。これで全部そろったわけである。
免許試験合格が遅れたために、計画したバイク一人旅の出発も8月1日とずれ込んでしまったが、計画ではこの旅行は12日間を要するのだった。だからうまく行けば16日のお盆までには帰って来れる予定である。
バイクの免許を手にした僕は、出発時刻を8月1日の午前3時と決めたのだった。
もう出発までは26時間をきっていた。
バイクの荷台にくくりつけるリュックや備品を入れる袋に荷物を丹念に詰め込んだ。米や缶詰をしまい込むとき母さんにも手伝ってもらった。

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(写真は、初めてテントを建てた千葉県の富津海岸で)

【出発】
7月31日、天気は曇り。僕は朝から雨が降らないように祈った。
今日の真夜中に出発の予定だからである。
朝から体が多少震えてくる。
オートバイにはガソリンを満タンにしておいたし、用意だけは念入りにやったから安心だった。
夜、父から汽車賃や食事代として3千5百円を頂戴した。
「5日間位なら十分だろう」というのである。
少ないのは当然だった。いくらでも持って行きたかった。これではガソリン代にしかならないのは直感で感じた。
だが、何もいう言葉が見つからなかった。
そこへ、母が「何かの足しにしろ」と言って3百円を出してくれた。
私は、僕の気持ちが通じたのかと思い、わずか3百円でも嬉しかった。
そして、「疲れるといけないから早く眠れ」という。
何だか両親を裏切るのは変な気持ちである。
でもそのような気持ちは、出発前の僕にはどうすることもできない。せめて心の中で「母さん心配いらないからね」とつぶやくぐらいが精一杯だった。
僕は用具をもう一度点検してから寝床に普通どおりに入った。

時計は10時半を少々回ったところである。
これから出発予定の夜中の2時までは眠ったふりをして起きていなければならない。それがまた大変なことはすぐに感じた。
とにかく睡魔がリズミカルにおそってくるのだった。
ここで眠ってしまったら、これまで計画してきたことが一瞬にして崩れ去ることになる。それだけは避けたいと、僕は大きな眼を開けて天井を眺めつづけた。
同じ部屋に眠る二人の兄たちのここちよい寝息が聞こえてくる。
気が付けば、僕の眼は閉じているのだった。
これではいけないと思った僕は、眼を大きく開き、まだ見ぬ箱根の光景や、伊豆半島の海の青さを横目にオートバイにまたがり走る自分の姿を想像することにした。
それは良い考えだったらしく、眠気がすうーっと消えるのだった。
そろそろ2時。
僕は手の届くところに置いていた靴下を寝床の中ではいた。
気付かれはしないかとドキドキとしてくる。
それからそっと寝床から抜け出し、用意していた衣服を身に着けた。
そして、昨夜書いておいた置手紙を机の上に置く。
それからふすまを静かに音を立てないように開け閉めして、どうにか部屋の外に出た。
廊下や階段も静かに歩き、どうやら外に出ることも成功したようだった。

外に出た僕は、これからが本当のスタートだと思うと、体が引き締まってくるのだった。昨夜外に鍵を挿したまま隠しておいた80ccのオートバイに荷物をくくりつけると、時刻は2時25分。思ったとおりの好成績である。
そして、オートバイのエンジン音が家に聞こえない位置までバイクを押して歩き、それから一気にエンジンをかけると、2時30分ちょうどに我が家を後にしたのだった。
空には星もなく、真っ暗闇が広がっていた。
上山の町並みの街灯の灯りだけが、僕の行く手の道路を照らしていた。
僕は眼に入る全てのものに挨拶をした。
「おい、俺が無事に戻ってくることを祈ってくれよ」「また逢おうぜ!」
そして、何故か引き返して八幡神社に参拝し、上山市内に自分のバイクの音だけを残しながら、金も少なく、取り立ての免許証を手にして、16歳の僕はまだ見ぬ町へと旅立ったのだった。

【寒い!】
福島市から青森まで走る国道13号線は舗装されていて快適な旅立ちなのたが、受ける風の寒さがこんなに寒いとは計算外だった。
上山市の中山地区を過ぎ、赤湯まで来た。
あまり寒いので、赤湯の町の街灯の下で、バイクを止めて服を一枚取り出しそれを着た。これで上が5枚、下が2枚である。
「ちくしょう、ももひきでも持ってくればよかったなぁ」
と独り言をいってしまう。
手も軍手をつけているが感覚がなくなるほどに冷たい。
スピードを出すほど風が強く当たり寒いので、40kmほどのスピードで走った。
空はどこまで行っても暗く、道路には人影すら見当たらなかった。
時おり大型トラックと行き交うのが心強く感じられる。
2時間くらいで米沢市内に着いた。
時刻は4時半を指している。

「家の人はまだ気づいていないだろうなぁ・・・」
と思いながら、米沢市街を出ると、だんだんと細い道になってきた。
これが国道? などと不安にかられながら僕はバイクを走らせた。
空がうっすらと明るみを増してきて、まもなく夜明けの近いことを告げている。
目の前に山が迫ってくる。道も悪くなる。それに登り坂が続くようになった。
細い道にカーブが多くなり、ところどころ未舗装の道路があり、とても国道とも思えない道がつづく。(注:当時は栗子トンネルはまだありませんでした。)
どこまで走っても同じ道を走っている錯覚にとらわれて心配になってくる。
しかし、たまにトラックとすれ違うことで国道であることを確証できた。
水溜りでは粘土質の道路で滑って転びそうになったり、真新しいズック靴も、まだ新しいバイクも、もう数年間使用したように汚れてしまった。

そうこうして福島市内にたどり着いたのは、朝の7時30分だった。
米沢から3時間もかかり、これは僕の予想を大きく上回っていた。
もう倒れこみそうなくらい疲れを感じていた。
福島駅前に着くと、登山服姿の人が多く目に付き、やはり夏休みの季節であることを感じさせた。
僕はさっそくガソリンスタンドを探し回り、ガソリンを満タンにするとともに、汚れてしまったバイクの土や泥を洗い落とした。
ここから宇都宮までは国道4号線である。
天気は曇りだが、走っていてもほのかに温かさが感じられる。
二本松市内の食堂で朝食に玉子丼を食べたが、とてもまずかった。

それに白河に入ったあたりから心配していた雨が降りだした。
それもどしゃ降りだった。
雨宿りする間もなく、全身ずぶぬれになってしまった。
ここにきて、僕は雨具を持ってきてないことに気づいたのだった。
あんなに丹念に調べたのに・・・と、僕は泣きたくなった。
どうせ濡れたのだからと、僕はそのまま走り続けた。
行き交うトラックや自動車の数も山形県内とはかなり違うのだった。
汚れたGパンはすっかりきれいになったのだが、雨が顔に強くぶつかり、眼を開けてられないくらいに痛い。
また、衣服の上からしみこんできた雨水が、胸の辺りで合流し、川のようになってパンツの中に流れ込んでいくのが分かった。
体は水冷空冷の両冷却装置により、僕の体は完全に冷え切っていた。
眠気や疲れもあり、頭もずきずきと痛いのだった。

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(写真は、千葉県木更津から神奈川県久里浜までのフェリー乗り場で)

【くじけるな】
栃木県の氏家町という所まで来たら雨は小降りになった。
このままでは風邪をひいてしまいそうなので、道路沿いのある家の納屋を借り、そこで着替えをさせてもらった。
ぬれた衣服はしぼってビニールの袋に入れリュックにしまった。
なんだか頭がクラクラする。
すごく眠い。
一晩中眠らなかったからなのか、このままここで眠りたいと思った。
でも、今日の目的地は茨城県の大洋村という所に決めていた。
眠っているひまなんかない。
距離もまだ半分くらい来ただろうか、ここで眠ってしまっては計画が狂う。
しばらく休ませてもらい、空を見ると雨がやんでいた。

きっと茨城県は晴れているに違いない、と僕は信じ、礼をいってそこを出た。
着替えしたての乾いている衣服というものは、とても気持ちのいいものなんだ、と思っていると、20キロも走ってないのに、また雨が降ってきたのだった。
せっかく着替えしたのに、悔しいったらない。
泣きたくなるような気持ちを抑えながら、なんとか宇都宮まで来た。
時計は午後3時半。
ひどい降りではないが、それでもかなり濡れてしまっていた。
でもここでまた着替えるわけにはいかない。
あと着替えは一回分しかないのである。
それも濡れたなら、この旅行は失敗することは眼に見えていた。
「ここは上山じゃないんだ、一人なんだ、くじけるな!」
と、僕は自分自身に向かって強くいい聞かせた。

僕は水戸に行く道をたずね、第二の難関、宇都宮、水戸間を突っ走った。
国道なのに舗装もされてないデコボコ道である。
これには僕も参ってしまった。
雨はどこまで行っても降り注ぎ、道の悪さとあいまって、さらに疲労が増すのだった。
「雨さえ降らなけりゃなぁ・・・」
と、僕は半べそをかきながら走った。
体は、もう感覚がないほどに冷え切ってしまっている。
さらに熱が出てきたようだった。
頭の痛みがひどい。
水戸市内にたどり着いたとき、ほっとしたのか、頭の痛みが増してきた。
もうこれ以上は走れないと、体中が訴えてストライキを起こしていた。
それに都市部は道が複雑に入組んでいて、なおいっそう辛いのだった。
「どこをどう走ればいいんだ」
などと独り言をいいながらも、もう倒れこみそうだった。
こんなところで倒れるのはゴメンだ、などと意気込むのだが、もう体がいうことをきかない。
とうてい目的地の大洋村までもたどり着けそうにないのだった。

僕はあるだけの体力をふりしぼり、なるべく安い旅館を探そうと思った。
しかし、探し回るだけの体力すらない。
眼に入った旅館かホテルか、とにかく飛び込んで「泊めて下さい」と言った。
大きな玄関で、高そうな雰囲気だったが、今は財布の中身を考える余裕はなかった。
奥から出てきた女中さんが、濡れた僕を見てキャーとか、奇声を発したように覚えている。
それから、もっと安い旅館があるから・・・とかいって、その道順を説明してくれたのを覚えている。
倒れこみそうな僕は、重い足取りで、さらに少しだけ移動して、その旅館の玄関に入ったのを覚えている。
その後のことはほとんど覚えてなかった。
気が付けば、布団の中にいた。
たぶん、濡れた衣服を脱ぎ、浴衣に着替え、布団をしいてもらい、もぐりこんだのだろう。その途切れ途切れの記憶の一コマが、思い出された。
テーブルの上には、手の付けられてない料理が並べられ、一枚の新聞紙がかけられていた。
部屋の片隅には、誰が運んだのか、新聞紙の上に僕のリュックが置かれていた。
僕は、再び深い眠りへと落ちた。

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(写真は、フェリーボートの中の原付バイク)

【計画変更す】
翌日8月2日。朝7時半に眼が覚めた。
ぐっすり眠ったせいか昨日のあの悲惨な疲れが嘘のように消えていた。
それに何よりも嬉しかったことは、雲一つない好天に恵まれていることだった。
朝飯も全部平らげ、それでも足りないくらいであった。
できれば昨夜の料理も出してもらいたいとさえ思った。

頭の痛みも、熱さえも消えている。
腹いっぱい食べ終わってから、上山の家に初めての手紙を書いた。
家族の今回の僕の行動への驚きと怒りの姿が眼に浮かぶ。
悪いことしたなぁ、と思いながらも、こんな離れたところから書く手紙に、不思議な興奮さえ覚えた。

旅館のおかみさんに厚く礼をいい、一泊の宿泊料金650円を払い、9時半頃に2日目の目的地、霞ヶ浦湖畔へと向かったのだった。
晴れ渡った空を見ながらバイクで走るってこんなに気持ちのいいものなのだ。
太陽の光を浴びながら、風は快く頬をなでていく。
しばらくすると、太平洋が美しい色で顔を出してくれた。
海岸線に沿ってのバイク旅行も、天気の良い日なら最高である。
本来なら、昨日の宿泊地であった大洋村の海岸で少し遊んでから、目的地の霞ヶ浦へと向かった。
早く着いて、濡れた衣類を干したかった。

潮来を通り佐原を通って伊佐部村という所でキャンプに適したところはないかと聞いたが、良い所はないという。
それなら「千葉の木更津に行ってみろ」と逆に勧められた。
霞ヶ浦に泊まる予定を変更し、僕は千葉県へと向かった。
途中成田山神社の脇の道路を通ったので、参拝し50円のお守りを買った。
千葉に向かう途中、昼食用にと買った50円のぶどうパンを荷台のひもにはさんで走っていたのが、食べようと思ってバイクを停めると、落としてしまっていてなくなっていた。
千葉市内に入ったが、水戸市のときと同じく道路が入り組んでいてややこしく、持参した地図では役に立たなかった。
こういうときは人に尋ねるのが一番である。
僕は無理をして標準語に近い言葉を使うように心がけたせいか、山形弁が抜けて徐々に標準語が板についてきていた。
やっとの思いで千葉市街を抜けたが、こんなところでこの有様じゃ東京はきっと無理に違いないと本気で思った。

夕方になって、木更津には着いたが、キャンプに適したところが見つからない。
探し回っている内に夜になってしまい、午後7時を回ってしまった。
困った。それにかなり疲れてしまった。
また人に尋ねることにする。
20キロ先に富津というキャンプ村があるといった。
疲れてはいたが、月も明るいので行くことに決めた。

富津のキャンプ村に着いたのが夜の8時10分だった。
すぐにテントを建てることにした。
家で一人でテントを建てる練習を重ねてきたので難しいことなんかない。
ただこれからご飯を炊くのが面倒なので、かわりに近くの出店でスイカを買ってきて食べることにした。
今年初めて食べるスイカだったが、きわめてうまくなかった。
かなり大きなキャンプ村らしく、あちらこちらにテントが建っている。
それに夜更けまで音楽や笑い声や話し声が方々から聞こえてきた。
日記をつけ、明日の予定を検討してから眠りに着いたが、テントに一人で寝るのは初めてのことだった。
新しいテントの香りがぷ~んと鼻を突いてきた。

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(写真は、事故現場付近の芦ノ湖畔、元箱根の町)

【またまた計画変更す】
8月3日(土)今日は昨日のような天気ではないがまあまあの天気である。
ところで、東京を通って静岡県を目指す計画だったのだが、もう大都市を通り抜けるのに疲れ果てていた僕は、今日になってコース変更を決意した。
それは千葉県の金谷から出ているフェリーボートに乗って、神奈川県三浦半島の久里浜に渡るというものだった。
この方が金もかからないのじゃないか、という思いもあった。

家に二度目の手紙を出してから、午後1時発のフェリーボートに400円払って乗った。東京湾を横切るフェリーボートである。
船の中には大きなトラックやバスの間に挟まって、僕の相棒のバイクがポツンと置かれたいた。
海の向こうに、伊豆大島がかすかに見えた。
乗って間もなく神奈川県の久里浜に着いた。
フェリーを降りてから、横須賀に向かい、そこから鎌倉を通り、有料道路である湘南道路を10円払って走った。

江ノ島辺りに来ると、空はすっかり曇ってしまい、海から吹いてくる潮風は僕の心に冷たくあたった。
今日の宿泊予定地は伊豆半島の南伊豆である。
空の曇り空に呼応して、海の色も鉛色をしてうねっていた。
加山雄三のあの明るい湘南海岸をイメージしていた僕は落胆しながら走った。
それに体の疲れがとれてないのか、ひどいだるさと眠気が起こっていた。
小田原を過ぎ熱海の辺りに来ると、体がひーひーいい出した。
もう倒れこみたい心境だった。
こんな状態では伊豆半島の先端の予定地にはとうてい行けそうにないと思った。
そこで、熱海の街中で、近くにキャンプ場がないかどうかを聞いた。
10キロほど先にキャンプ場があるという。
僕はハアハアと息を荒げながら、そのキャンプ場へと向かった。
思えば、今日は朝に15円のあんパンを1個食べただけだった。
ケツも痛い。
疲れてはいても、よくもこんなところまで一人で来たなあと、自分で自分を見直した。

しばらく走った後に、海岸端に緑の芝生が生えている小さなキャンプ場が眼に入った。
そこにバイクを乗り入れ、「テントを建てさせてください」といったら50円だという。もう動きたくない僕は50円を払い、担当者の後ろを付いていき、いわれた場所に力を振りしぼってやっとの思いでテントを建てた。
もうすぐにでも眠りたいと思った。
でも腹がすいたまま寝て、明日の朝起きられないというような事になりたくなかったので、飯ごうで米を炊いたが、海から吹いてくる風のせいかなかなか火が燃え上がらない。
燃料缶2個を使ってやっと飯ができた。
旅行に来てから初めて自分で炊いた飯だった。
思ったよりうまく炊けたので、嬉しかった。

飯の後、夜の9時頃に、キャンプ場にある露天風呂に入って体を洗った。
昨日の富津キャンプ場と違って、ここの海辺のキャンプ場は静かだった。
露天風呂もひとりなので貸切状態である。
僕は手足を伸ばしながら、ぼんやりと空にかすむ月を眺めた。
キャンプ場は岩場に設けられていて、露天風呂からも下の方には海も見える。

露天風呂から出て、寝床に着いたのが10時だった。
寝床とはいってもシュラフという寝袋である。
その寝袋の中で、上山を出てから初めて僕は泣いた。
家のこと、家族のことを思うと悲しくなったのだった。
それに疲れもあったのだろうか、大きな声で泣いた。
泣くだけ泣くと、気持ちがスカッとしてきたのが分かった。
いつしかそのまま眠ってしまった。

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(写真は、芦ノ湖畔にある箱根神社鳥居脇でのキャンプ)

【思わぬ事故】
8月4日(日)朝起きられないほど頭が重い。
ここ伊豆半島の入り口にある有料キャンプ場で昨夜キャンプをしたのだったが、朝になってみると身体が動かないのだった。
しかしここにもう一泊することは出来ないと思い、無理してシュラフから身を乗り出した。
昨夜の残り飯を食べてから出発の準備にとりかかった。
今日の予定地、伊豆半島先端の南伊豆への地図確認と財布の中身を調べているうちに、大変なことに気づく。
財布の中身の金額を何度も数える。
残金は合計で1400円しかないのだった。
上山の家を出るときは3800円あったのが、今は1400円しかない。
これでは伊豆半島一周などできるはずもないではないか。
残金を考えると伊豆半島どころか、富士登山や、帰りの甲信越地方廻りもあきらめるしかなかった。

1400円では、家へ直行する資金しか手元にない状態というしかなかった。
身体もきついが、金の無いのが泣くに泣けないほど悔しい。
これまで上山を出てから698キロの距離を走ってきていた。
しかたなく計画を大幅に変更し、この地点で折り返しを決意する。
しかし、ここまで来て富士山を見ずに帰るのはどうしても許せない。
そこで40キロ先にある箱根から富士山を眺め、芦ノ湖畔で一泊してから明日東京を抜けて上山へ向かうことに決めた。

キャンプ場を出て、昨日の道を逆戻りし、熱海から箱根の十国峠へと向かった。
十国峠へ着いて、そこが有料道路だとは知らなかった。
しかしここまで来て引き返すのもしゃくだったので、しかたなく150円を払って通る。150円の支出は大きく、美しい風景も金が消え失せたショックからあまり美しいとは感じられなかった。
それでも芦ノ湖が見えたときは、「きれいだなぁ~」と声をもらした。
そして間もなく箱根の元箱根町に入った。
芦ノ湖では水上スキーの大会が開かれているのか、町の通りもにぎやかだが、スピーカーからの大きな音声やアナウンスが響き渡ってくる。
僕はガソリンスタンドを見つけると、タイヤの空気を点検してからキャンプ予定地の湖尻へと向かってバイクを走らせた。

箱根神社のカーブにさしかかったときである。
停まっていたバスを追い越したとき、バスのかげからタクシーが急に飛び出してきたのだった。
「あっ」と思ったがあまりの急な出来事にブレーキをかけられないまま40キロのスピードでタクシーにぶつかってしまった。
8メートルは飛ばされた僕は、予想もしなかった事故に何がなんなのかも分からなかった。
反射的に立ち上がったが足を強くぶったのか感覚がなく、しりもちをついてしまった。
水上スキーの観客だろうか、 知らぬ間におおぜいの人が事故現場へと向かって集まってきた。
そんな中、おみやげ店から出てきたおじさんとおばさんが僕の両脇を抱えて店の方へ運んでくれた。
おばさんは「大丈夫か?」と何度も聞く。

僕もどうなのだろうかと身体を点検すると、運がよかったのか足を強打しただけであとはかすり傷だけだった。
心配するおじさんおばさんをよそに、僕は足を引きずりながらバイクが心配で道路に出て行く。
「バイク、バイク、・・・」
店の方が連絡してくれたのか、いつの間にか警察の人も来ていた。
僕はおおぜいの見学者をかきわけて壊れて横たわるバイクの姿を眼にする。
そこにはハンドルが折れ曲がり、吹き飛んだヘッドライト、垂れ下がったブレーキレバーのあわれなバイクが横たわっていた。
あわれな相棒の姿に、この旅行の柱となってがんばってきたことを思うと、悲しみと同時に感謝の気持ちも心の中にわきおこってきた。
「ゴメンよ、・・・」と僕は横たわるバイクに謝った。
それと「ちきしょう、家に帰れないのか」という怒りの気持ちもわきおこった。

近くの駐在所に連れて行かれた僕は、色々と質問され調べられた。
そんな中、僕は家の人に連絡しないように頼んだ。
「気持ちは分かるが、そうはいかないよ」とある警官はいった。
僕はバイクは壊れたし、修理の金なんて持ってないし、そのことを思うと落ち込むしかなかった。
そのことを警察の人に相談すると、ある警察官が知り合いの修理工場へ電話をかけてくれた。
警察官は話をつけてくれたのか、しばらくしてトラックでバイクを引き取りに来た。
修理工場の人は壊れたバイクを見て、修理には3日か4日かかるといった。
修理代金は後払いでOKしてくれたのだった。
その間、僕は近くの芦ノ湖畔でキャンプすることになった。
トラックの荷台に放り込まれ、運ばれていくバイクの姿に僕は胸が痛んだのだった。

キャンプ地に選んだのは箱根神社の境内になっている芦ノ湖畔で、ちょうど箱根神社の鳥居がある近くの平坦地である。
米はまだ1升2合ほどあり、できるだけ金を使わずに米だけで過ごすことに決めた。
事故の悲惨さとは別に、夜の芦ノ湖はまた素晴らしく、その湖畔を走る遊覧船にはいろんな色の電球が飾り付けてあり船の姿をくっきりと浮かび上がらせている。
その船からはハワイアンのメロディが僕のテントにまで届いてきた。
僕は寂しさからできるだけ焚き火をたいた。
箱根の夜は寒く、服を着込みシュラフに入ってから、眠る前に無事に郷里の上山へ帰れることを祈った。

翌日(8月5日)眼が覚めてから、バイクの無い自分の無力さが情けなく、落ち込む。
家を出てからまだ5日なのに、もう1ヶ月も経ったかのような気持ちにもなる。
今ごろ家では何をしているのだろう?
僕を許してくれるだろうか?
いろんなことが脳裏をよぎった。
日中僕は箱根神社に無事帰還できることを祈り、暇つぶしに何度も神社境内を行ったり来たりして過ごした。
昼は多勢の人が箱根神社の参拝に訪れてにぎわう。
夜になると遊覧船の他に花火も上がり、その火花が芦ノ湖の水面に反射してとてもきれいだった。

8月6日、身体がやせてきたのが自分でも分かった。
それに、一人でいることはとても辛い。
もう箱根神社に遊ぶのに飽きた僕は、近間にキャンプしている人達に自分の方から近寄って話しかけるようにした。
それが良かったのか、キャンプを終えて帰る人達が、もう必要ないからといって缶詰やらソーセージやら米までも僕に置いていくのである。
そして友人になった一人とは焚き火を焚きながら夜遅くまでお互いの未来の夢を語り合ったりもした。
一人でここまで来た僕のことを皆驚くと同時に励ましてもくれた。

8月7日は駐在所の家でカレーをごちそうになった。
警察官の方も親切で、修理工場に電話をしてバイクの修理具合を確認してくれた。
「明日の夕方までに修理が終わるそうだよ」といった。
僕は飛び上がるほどの嬉しさの中で、不思議な力がみなぎっていくのを感じた。
その日は、隣にテントを建てたアメリカ人一家とも仲良くなり、夕食のバーベキューに招待されたりもした。僕は映画の中でしか見たことのないバーベキューの味を初めて知った。

翌8月8日、今日バイクが直ってくると思うと朝から落ち着かなかった。
午後になると待ちきれずに駐在所で修理工場の場所を聞き、そこまで歩いて行くことにした。
キャンプの場所から歩いて1時間くらいの場所にその修理工場はあった。
僕は挨拶もそこそこに、バイクの姿を探した。
ガレージの中の隅に置かれた相棒のバイクは、まだ直ったという姿ではなく、応急処置がほどこされたという状態で放置されているのだった。
出てきた修理工場の人に、「本当に夕方までに直るんですか?」と僕は悲痛な声で聞いた。
「部品が届かなくってね、困ったな・・・」
と修理工場の人はいった。
僕は「何とかできないでしょうか?」とまた問いかけた。
2,3人の修理工の人達が集まり、何やらバイクを触りながらしゃべり合っている。
そのうち、先ほどの人が僕の方にやってきて、
「何とか走れるようには出来そうだから、あと3時間ほど待ってくれるか?」という。
「はい、いいです」と僕はこたえて、運んであげるから帰ってていいよというのを、
「いや、直るまでここで待たせてもらいます」といって、修理の進行状況を眺めさせてもらった。
結局5時間ほどかかって、バイクの修理が完了した。

「無理しないで走ってよ」という声を背に、僕はバイクにまたがって元箱根町の駐在所さんの場所まで戻った。
その姿を眼にしたお巡りさんが出てきて、バイクをしげしげと眺め回した。
直ったといっても、その傷跡は痛々しく、応急処置の状態であることは見ればすぐに分かる。
「それでいつ帰るの?」と僕にきく。
「はい、これから準備して今夜出発します」というと、
「明日のあかるい時間にした方がいいんじゃないのか」といった。
「いや、今夜にでも帰りたいんです」と僕がいうと、
「そうか、じゃ、晩ご飯を家で食べてから出発しろ」といった。
僕は「はい」といって、バイクでキャンプ場所まで走り、急いでテントをたたんで後片付けをはじめた。

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(写真は、芦ノ湖畔のキャンプで知り合った隣のアメリカ人家族のテント)

【一路上山へ】
元箱根町の駐在所さんの家で晩ご飯をご馳走になった僕は、お礼もそこそこにバイクにまたがった。
お巡りさんの家族がみんなで外まで出て見送ってくれた。
「気をつけてな」
というお巡りさんの声に、「はい」と答えて僕はバイクを走らせる。
時刻は夜の9時になっていた。

小田原におりたあたりでヘッドライトが突然消えてしまった。
国道の道路脇の灯りをたよりに、それでも速度を落として走り続けた。
ときおり、車が通るときはバイクを道脇に停めて車をやり過ごしたりもした。
しかしミニバイクに不釣合いなほど大きなリュックサックを荷台にくくりつけているのである。
そのバイクがライトも点けず、押して歩く姿は、何とも不思議な姿なのかもしれないのだった。

結局誰かが通報したのだろう、小田原を出たところでパトカーがやってきて尋問された。バイクのナンバープレートから山形のバイクであることは判るし、免許証の住所も山形県K市となっていることから、事情を説明するとパトカーの警官もすぐに事件性はないと判断したのか、30分ほどで開放してくれるのだが、俺にとっては迷惑な時間だった。
ただ、「ライトも点けずに乗っちゃだめだよ」と念を押された。
僕は「はい」とうなずくしかない。

そんなことから、車が見えないところだけバイクに乗り、車が見えたらバイクを引いて歩く作戦をとった。

二宮町辺りで日が変わり、8月9日を迎えた。
その後も大磯町で一度、茅ヶ崎で一度、夜が明けた藤沢市に入るまでに、3度もパトカーに尋問を受けたのだった。

茅ヶ崎での時は、もう慣れっこになってしまって、警官に向かい、
「夜が明けるまで警察署に泊めてもらえませんか。もう尋問はいやですから」
といった。
パトカーの警官は笑って取り合わなかった。

結局小田原から6時間のほとんどをバイクを引いて歩き、夜が明けたのは横浜市戸塚区辺りだった。
もうすでに元箱根を発ってから8時間が過ぎていたが、まだ51キロほどしか進んでないのだった。
明るくなったのをよいことに、僕はようやくバイクを全開で走らせた。
早朝の横浜市街を過ぎ、東京へ入ったのは午前5時を過ぎたあたりだった。
早朝の東京はすがすがしく、気分が良かった。

しかし、都心に近づくに連れて事情が変わってきた。
午前6時頃になると急に車が多くなり、片側何車線もある広い道路を走るのはかなり苦労することになったからだ。
僕がもっとも恐れた光景だった。
道路標示に書かれている地名がまったく分からず、ピンと来ず、左右どちらへ曲がるべきか、また真っ直ぐに行くべきかが分からないのだった。
そういう意味では、東京タワーがいい目印になったのだが、その東京タワーが右に見えたり、今度は左に見えたり、走っているとまた同じ場所に出たり、気がつけば2時間も東京タワーを中心にしてぐるぐると廻っているのだった。

また霞ヶ関とおぼしき場所では、濡れた道路に気づかず、タイヤが横滑りして思い切りこけてしまった。
バイクは壊れず、運良くかすり傷だけで済んだが、リュックから飛び出したプラスチック製の水筒が割れ、水が飲めなくなってしまった。

そんなこともあり、東京ではずいぶんと時間を取られたが、上野までたどり着いたときは、あとは4号線をひたすら北へ向かって走るだけなので、ようやく安心することができた。

考えみれば、箱根を発ってからこの上野へ着くまでは、不眠不休で12時間もかかってしまっていた。

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(写真は、芦ノ湖畔のキャンプで知り合った隣のアメリカ人の子供たち)

【懐かしのわが町・わが家族】
箱根を発ってから12時間もかかって東京の中心部に着いた。
それも夜どおし歩き続けたのがこたえたのか、上野辺りで眠くて眠くてしょうがない。
それとも上野からは4号線をひたすら北へ向かうだけなので、安心感から眠気がでたのかもしれないのだった。
僕は上野公園で顔を洗い、少し休んでから、小さな東京地図を片手に山形へ向けてバイクを走らせた。

事故を起こさないよう、スピードを落として走った。
それでも眠気が出て頭がくらくらするので、時々、川を見つけては足をつけて眠気をさました。
それでも気がつけば道路の中央を走っていたり、行きかう車からクラクションを鳴らされたりした。
途中、なんどもここでテントを張ろうか・・・と思ったかしれない。
しかし、帰心矢の如しとはいったものだ。もう帰りたいという思いが心に充満していて、体もそれに従い、ひとりでに前へ前へと進んでいくのだった。

福島市に着いたのが午後2時半頃である。
途中何も食べていない。顔には汗のためかブツブツができていた。
来るときに通った栗子峠はもうこりごりなので、帰りは去年(昭和37年11月)開通したばかりの宮城県白石市から山形県上山市へ抜ける蔵王エコーラインを通ることにした。

ただ山岳道の蔵王エコーラインは寒かった。それに道路も舗装されておらず、衰弱してふらふらする体にはかなりこたえた。
それでも、あの栗子峠のようなぬかるみはなく、それにすぐそこに我が家があると思うと不思議に疲れが吹き飛んだ。
刈田岳の山頂脇に着いたのは午後5時10分だった。

登り道は終わり、ここからは下り道だけである。
そしてなによりももう上山市に入ったのだった。
嬉しい。そしてなつかしい。
刈田からの下り道、山形県側の空は僕の足下に雲海が広がっていた。
ところどころに高い山の頂が島のように点在して見えた。
心が躍るとはこういうことか、僕は我が家で待つ家族のことばかりを考えていた。
家では何も変わったことがないことを祈った。
それに、温かく迎え入れてほしいと願った。

山道は終わり、ついに懐かしい見覚えのある上山の景色が眼に飛び込んできた。
泉川橋を渡った。
とうとう上山の町中に入った。
振り返ると、そこにはいま下りてきた蔵王の山がきれいに見えた。
すべてのものがなつかしい。
上山の町をこんなに愛着をもって眺めたことはなかった。
市内を走る僕の眼には涙があふれてくるのだった。

僕は涙をふきはらうことすらしないでバイクを走らせた。
家が近づくにつれて、今にも心が爆発しそうである。
箱根を出てから21時間20分、8月9日午後6時20分、最良の我が家に僕は着いたのだった。
「ただいま!」と一声叫ぶと、感激が爆発して大きな声で泣いてしまった。
母がいる、父がいる、兄弟みんながいる、何もかも変わっていない。それが何より嬉しかった。
走りこむ僕のズボンの中で、残金の20円がちゃりんと鳴った。

そしてここに、全長1275キロの16歳のひとりぼっちの旅行を終えたのである。
(完)

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【その後、親戚の娘さんからコメントが届いた】

明けましておめでとうございます。
ご無沙汰しております。敦子です。

時折、こそーっとサイト覗いていました。

作文と呼ぶにはかなり長編のこの思い出の記述を
初々しい小説のように読んでいました。

読みながらわたしにも高校生のミミオンの姿が見えました。

素敵な冒険ですね。
帰る所があるから出来た冒険でもあったのですね。

わたしも読みながらハラハラし無事に帰れたことにホッとしました。
その後、家族からは怒られずに笑顔で迎えてもらえたのでしょうか?

またいつか、この話しの続きを聞かせてくださいね。

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【コメント返しの私のコメントです】

コメント、ありがとうございます。
青春の思い出って、誰にでもありますよね。・・ただ、この旅行はあまりにも無謀すぎたかもしれません。
まさに、生きて帰ったことが不思議なくらいです。(笑)

ただ、いまでも悔しいのは、せめてあと5千円あったらなぁ~!です。
でも、650円で泊まれた旅館とか、10円払って湘南道路を走ったとか、それだけでも貴重な昭和の資料ですね。
150円の十国峠の有料道路は高すぎたと今でもおもいますけど。

ああ、家に帰ってからのことを少し。
父からも母からもまったく怒られませんでした。
箱根の警察から事故の連絡が入ってからは、父母は神棚に毎朝ご飯をあげて、無事帰還できるようにと祈っていたそうです。
僕が「ただいま~!」と泣きながら家に帰ったときの、父の姿を今も忘れられません。
駆け寄る母や、兄たちの後ろの方で、父は一人、神棚に向かって、手を合わせておりました。
親とは、ありがたいものです。そんな父の姿を見て、僕はさらに泣いてしまったのですから・・。

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